"永井淳さんという人、この人はプロの翻訳家の中でもずば抜けたプロですが、あの人の「た」の字がおもしろいんです。「た」の字の縦の棒、それが横棒の上には絶対に出ないんですね。だからあの人の「た」の字は、こんな風に――(図)――「に」という字の上に一本横棒を引っぱったみたいな字でしょ。あれだけの量の翻訳を、しかも確実な三割打者としてつぎつぎにやってのける、読者が永井淳訳なら安心して買う、その秘密はもしかするとあの「た」の字にあるのかもしれない。「た」の字を断固として横棒の上に出さないことによって、厖大なエネルギーと時間を別なところに使っているんですね。これまで彼が書いた「た」の字を総計したら、それはもう厖大な量ですよ。おそらく文字を覚えた子供のころからそうなんでしょうから、するとあの人はやっぱり天性のプロ翻訳家ですかね。"
— 柳瀬尚紀『翻訳は実践である』(河出文庫)